空知川第一橋梁の生涯

掲載日:2021.02.23

空知川第一橋梁の生涯

本年1月15日付けのトピックスに支笏湖のシンボル「山線鉄橋」のことについて、輸入された当初は1899(明治32)年から空知川に架けられていましたが、その後架け替えによって支笏湖に移されたことを書きました。

支笏湖に移設され今は支笏湖のシンボルとなっていることは知られていますが、空知川時代のことはあまり知られていないと思いますので、私の知っている範囲ですがお知らせしたいと思います。

最初の写真(出典:北海道鉄道百年史下巻 国鉄北海道総局)は、1898(明治31)年空知川第一橋梁の建設工事の様子で、この橋が後に山線鉄橋となります。

この橋は英国製で国内には同形式に橋が約140基輸入されたといわれています。このうち国内に現存しているのは山線鉄橋を含め4基とされていますが、鉄道橋として現役で使用されているのは箱根登山鉄道の早川橋梁のみです(先日テレビ番組でも鉄橋を列車が走っていく姿が紹介されていました)。

また、国内の4基のほかに台湾・雲林省に虎尾鉄橋という同型の橋が現存しています。この虎尾鉄橋については、2020年6月10日付けトピックス・山線の歴史をご覧ください。

さて、話は空知川第一橋梁に戻りますが、私の手元に「北海道線第一空知川橋梁災害応急工事概要」という、1916(大正5)年に作成された報告書(コピー)があります。作成したのは工学士大村卓一とあり、札幌農学校工科卒、北海道炭鉱鉄道に入社、最後は南満州鉄道総裁を務めた方です。

このコピーは「炭鉱(ヤマ)の記憶推進事業団」の石川さんから頂いたものですが、その中に、大正5年5月7日から8日にかけ、暴風雨による空知川の氾濫により2枚目の写真(出典:1枚目と同)のとおり落橋(8日午後2時15分)したこと、その後直ちに応急工事に着手し同月23日午前3時には開通させたことなどが記されています(3枚目の写真は応急工事の様子 出典:1・2枚目と同)。

最も着目するのは応急工事の工法です。1~3案が示され、1案は落橋した桁部分を切断し川の中に捨てるというもの、2案は大規模な工事となり期間を要すること。3案は応急的な工事にとどめ期間を短縮するという方法で、3案が採用された結果短期間(報告書には12日間)で開通させています。

そしてこの3案が採用されたことによって、結果として架設された当時のままの姿が残されることになり、現在の近代化産業遺産や土木遺産の認定につながっているのだと思います。

 

 

 

 

 

 

空知川第一橋梁の生涯
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